ポップへと加速する仏教

ブラックカルチャー、ストリートカルチャー、Xスポーツなどに強くインスパイアされ、ヒップホップっぽいルーズな服を着てる若者を「B−BOY」と呼ぶのは、大人による乱暴なカテゴライズとか、一時の流行り言葉とかっていうだけでなく、本国アメリカでもすっかり定着し、またそういう人たち自身もその呼称を十分に受け容れているように見受けられる。

で、今日お話ししたいのは、「本家取り」、「加工産業」が得意なポップカルチャー大国日本から、また新しい独自アレンジ文化が生まれた、というお話だ。題して、「B−BOY」ならぬ「B−BOZ(ブラックカルチャー系坊主)」。
近くに仏教系の学校があるのか、駅のホームでおそろいの作務衣を着て坊主頭をした3人の若者とすれ違ったのだが、1人はニットキャップをかぶり、もう1人はDJ系のポーターバッグをたすき掛けし、残る1人は真っ白のエアフォースⅠを履いて、改札までの道をけだるそうに歩いていた。彼らを見付けた時の僕の目から出たハートマークの数といったら・・・!!カートゥーンネットワークの比じゃない。

−早めにお断りしておきたいのだが、僕自身は、そういうのはかなりクールだと思う。そもそもお坊さんがB系で何が悪い?
もともとスキンヘッドとB系の相性は抜群だ。そしてタイトル通り、念仏とラップは、その表現方法とメッセージ性の強さにおいて、とても親和性が高い。仏教の奥深い教義は多分記号的なファッションや商業的なメッセージ性を一切はねのけるロジックを持っているのだろうけど、もうひとつの側面、「檀家(ファン)あっての寺」という意味では、商業主義的なセンス、お坊さん個々のタレント性も大いに必要なのだ。というか、それこそが今の仏教、神道の逼迫した課題なのだと思う。

カッコいいと思うな・・・。
木魚を叩く替わりに、マイクを尻上げで持って参拝者の方を向いて言葉のマシンガンを放つお坊さん(バス付きハンディスピーカーアンプ持参)。
スクーターかベンツで乗り付ける替わりに、ヒップホップを大音量で流しならホンダFUSIONを転がして檀家の家々をツーリングする時間を大切にしているお坊さん。
死んでから行く世界は、善人だらけの世界ではなく、黒人だらけの世界。褐色の肌の下、「将来なりたいもの:黒人」という迷える民々を、須く平等に救ってくれる彼岸思想だ。

「去勢された博愛心」より、「ナイフのような危うさ」。「解脱感」の替わりに、「倦怠感」を。今やお坊さんは、中央集権的構造のシンボルたる「お寺」を離れ、さらには仏壇をも離れ、いよいよ「ストリート」に降りてきたのだ。

アレ、でもそれって法然西行法然は、希代の「やり手プロデューサー」だったんだろうな。